ジャカルタ

2015年12月5日

バンドゥンから鉄道でジャカルタへ。この大都市へ入るやいなや、規模の大きさに圧倒される。どこまでも続く近代的なビルの群れ(東京のような……)。駅からタクシーに乗り込むと、メーターが壊れているから使えない、と高い金額をぼろうとする(ジョグジャ、バンドゥンでは、皆、のんびりしていてこういう対応はなかった……)。都市開発が加速しているのか、いたるところでビルの建築が行なわれている。悪名高きこの都市の交通渋滞に巻き込まれ、そう遠くはないホテルまで1時間以上もかかる。

RRRec Festという音楽フェスティバルが開かれているゲーテ・インスティトゥートへ。タイからはスタイリッシュ・ナンセンス(Stylish Nonsense)、日本からは大友良英が参加し、その他はインドネシア勢。バンドゥンで会ったビン・イドリスや、デュト・ハルドノも演奏する。300人は入ろうかという立派なコンサートホール。オーガナイザーのコレクティブは、フェスティバルの会場を変えながら定期的に開いている(去年は森の中で……)。インドネシアでは助成金が極めて限られていることから、海外からアーティストを招くのが 難しいのだが、彼/彼女らは海外のファウンデーションなどからのサポートを付けるのがうまく、それを実現している。

大友良英は、貫禄のあるギター・ソロ。お得意のフィードバック奏法の倍音が可聴領域を超えた周波数に及び、天井に備えられた照明器具や備品をぶるぶると震えさせる。デュト・ハルドノはもうひとりのエレクトロニクス奏者とインプロで演奏、テープ・レコーダーとペダルだけでダイナミック・レンジの広い音を出し、技法の限定された機材を使いながらも、かなり即興に対応できる。ともかく、この夜一番の驚きはスタイリッシュ・ナンセンスだった。POK(Wannarit Pongprayoon)とJUNE(Yuttana Kalambaheti)のユニットで、1998年から活動しているバンコクのアンダーグラウンド・シーンの古株。POKがアームの付いた持ち運びできるキーボードを、JUNEはサンプラーにつながれたパッドとドラムセットを演奏。シンセのシーケンスやリフに、即興的なリズム遊びを絡める。スタイルが日本のサブカルっぽく、バッファロー・ドーターあたりに雰囲気が似ているが、なんでもできてしまう柔軟さといい意味で先を読ませない即興性が、テンションを生み出している。そして、このバンドを他と完全に隔てているものは、パフォーマティブな振る舞いだ。2人ともスカートをはいて、ステージ上を所狭しと動き回り、派手なアクションが付いてまわる。最後にはドラムにタックルしてセットを破壊して終わり。音楽が半分で、見せ方が半分ぐらいの割合だろうか。音楽畑では、サウンドに偏りがちでヴィジュアルを気にしないアーティストがほとんどだが、ダンス的でもなく、演劇的でもなく、違った方法で視覚的な要素を取り込むのがユニークである。


 

12月7日

ジャカルタ・ビエンナーレでの展示風景

ジャカルタ・ビエンナーレでの展示風景

ジャカルタ南部のパンチョランにある特設会場で開
かれているジャカルタ・ビエンナーレを訪れる。元
はデパートだったという倉庫が会場で、冷房がない
ので茹だる暑さ。ビデオを使った作品を設置した部
屋のみ、閉め切る為にエアコンを効かせているので、
たまにそこに居座る。今回はテーマを『戻るでも進
むでもなく:今、行動を(Neither Back nor Forward: 
Acting in the Present)』と設定し、過去へのノスタル
ジーでもなく、未来のユートピアへの待望でもなく、
現在をしかと見据え行動せよ、と。多くはインス
タレーションで、環境汚染、資源の枯渇、貧困、内
戦、性差別など、ありとあらゆる社会問題を扱った
国内外のアーティスト約70人。オランダ、アイント
ホーフェンのVan Abbemuseumのディレクターであ
るCharles Escheがチーフ・キュレーターを務め、6人のインドネシア人キュレーターと共に作品を選んだという。インドネシアは社会問題には事欠かないというか、それだらけの国である。国外の作品であれ、国内の作品であれ、取り上げられる諸問題はなんらかの形でこの国の置かれている状況を反映していて、身近なリアリティーを感じる。前に触れたジョグジャのアーティスト・コレクティブ、ライフパッチは水資源の問題に取り組む。スラバヤでは浄化された清潔な飲み水を手に入れることがままならず、彼らはコミュニティーに入り込んで実際に浄化装置を設置し、その行為をビデオに収め、インスタレーションに仕立てあげた。ハノイの写真家マイカ・エラン(Maika Elan)は、 2010年から撮りためたホモセクシャル、及びトランスジェンダーのカップルのポートレートを展示。ベトナムでは、2015年に同性結婚が認められることになったが、その前触れか、シンクロニシティか……(宗教的な価値観がいまだに根強いアジア諸国で、しかも一党独裁の社会主義国家で認められるとは……)。

マラワン・クビシゲン・コタによるインスタレーション


マラワン・クビシゲン・コタによるインスタレーション

音楽に関わるものといえば、スラバヤのコレクティブ、マラワン・クビシゲン・コタ(Melawan Kebisingan Kota)のインスタレーションが興味深い。彼らのグループ名は「都市に拮抗するノイズ(fighting noises of the city)」を意味し、実際に街中の公共空間でノイズ・パフォーマンスやワークショップを繰り広げてきた経歴を持つ(適した演奏会場がないから、という理由もあるだろうが……)。今回の作品は、ジャカルタの街で音を出すのに都合の良さそうなありとあらゆる廃品を、ストリートで拾ったり、蚤の市で買ったりして掻き集め、大掛かりな「楽器」のようなインスタレーションに組み立てたものだ。ジャカルタは世界十指に入るほど交通渋滞が酷く、それにまつわる騒音の問題も深刻である。建築ラッシュゆえに、さらに輪をかけて悪化している。そういう都市の問題を可視化、加えて音響化してみたわけだ。

ここで、少しばかりこの国における「ノイズ」について記しておきたい。『BISING―ノイズミュージック・フロム・インドネシア』というジャカルタのアディティヤ・ウタマ(Adyhtia Utama)と共同監督のリアル・リザルディ(Riar Rizaldi)によって作られた映画があった。2009〜10年に撮影されていたというが、2014年に公開されて以来、ヨーロッパや日本のフェスティバルを巡回している。東南アジアではインドネシアが最もノイズ音楽の盛んな国だということで、ジョグジャ、バンドゥン、ジャカルタなどの都市で活躍するミュージシャンのライブやインタビューを織り込んだ貴重なドキュメンタリーだ。シーンの興盛を伝えるだけでなく、保守的な社会の中での孤立、ミュージシャンとして生活していく苦難などの問題点も語られ、出口の見えない閉塞感が漂っている。興味があったので、今回のリサーチで実際にいくらかのアーティストにもあってみたし、録音物も漁ってみた。しかし、なにか腑に落ちなかった。わたしは、80年代から日本やアメリカでこの手の優れたアーティストのパフォーマンスを見る機会がいくらでもあった。秋田昌美、非常階段、マゾンナ、ウォルフ・アイズ、ケヴィン・ドラム……、数えればきりがない。それらに比べると芸術的な完成度が浅く、個性に欠ける気がするのだ。それなりにインパクトはあるが、他者を説得できるまで至っていない?わたしの抱えている疑問を、『BISING』の共同監督であるリアル・リザルディに投げ掛けてみると、以下のような答えがメールで返ってきた。「率直にいって同感です。社会的な現象として捉えるとノイズ・ムーブメントはかなり面白い(ポリティクスや、疎外や、怒りなどが絡んで)。ですが、彼らのパフォーマンス自体はコンセプトやアイディアを欠いています。どこまで過激になれるか、限界を押し広げようとしているだけで、インドネシアの社会においてはトランスグレッシブですが、明確なコンセプトがあるわけではないのでサウンド自体はたいしたことはありません。あくまでどこまで過激になれるかだけなので、どのパフォーマンスも同じように見えます。僕のささやかな意見を述べるとすれば、インドネシアのノイズ・アーティストは自らの行為に簡単に満足しがちです。彼らのほとんどは、実験的ですらなく、単にノイズをぶちかましたいだけで、彼ら自身の表現を高めていく必要性を感じていません。そういいながらも、僕にはこの『ノイズ現象』が起こる理由が痛いほどよくわかります。彼らは、日々の仕事に追われ、心の中にある情熱を抑圧しています。週末に騒音をまき散らすことでうさを晴らしたいのです。そういう意味では、これはインドネシアの経済や社会的な問題に根付いています。文化的により深いものをえていくことやアートや音楽への情熱は、彼らにとっては必要ないことなんです」。なるほど。そうなら、「ノイズ」を通過した後に残るもの、もしくはこれから出てくるやも知れない「ノイズ」を極めたものに注目したほうがいいかもしれない。アプローチを美術のコンテクストに移し、自分達のやっていることを相対的に検証したマラワン・クビシゲン・コタや、まったく別の方向性を見いだしたラブのようなアーティストにより豊かな表現力を感じる。リアル・リザルディは過去のノイズミュージシャンとしての経験を活かし、現在はイギリスでエクスパンデッド・シネマを研究し、ノイズをビデオの映像に変換するパフォーマンスを行なっている。こういう実験も先を切り開いていくのにいいだろう。可能性はいくらでもあるだろう。

今回のインドネシアのリサーチも今日が最後。急ぎ足で3都市を廻ったが、アーティストの質も量も予想以上に高く、他のアジア諸国に比べてずば抜けている。加えて、各分野の壁がやたら低いので(音楽という分野の中の壁であれ、音楽と他分野の間の壁であれ……)、アーティストが別のアイディアを取り込んだり、異なる角度から眺めたり、拡張していける可能性を十分にはらんでいる。現時点では、多々問題はあれど、この先、この国から刺激的なアーティストが多々現れることは間違いないだろう。