何が絶対的に、クリティカルに必要だと思うか

Photo: Hideto Maezawa

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キーホン・ロウ:ピチェにぜひ拍手をお送りください。私は彼と長いつき合いですが、パブリックな場でここまではっきりと物を言うのを聞いたのは初めてです。実際、今の言葉は今この部屋にいる他のアーティストたちにも共鳴すると思います。彼らが日々直面していることを鑑みると、アジアの状況はこのままではいけないと声を大にして言わなければならない。さらに広げれば、私はこの問題は東南アジアだけのことではないと思っています。世界中のいろいろな場所で、程度は違えど、かなり似通った問題に悩まされている人々がいます。ピチェの言う通りで、フェスティバルであっても劇場であっても、アーティストにであれ、作品にであれ何であれ出資されるお金はほとんどが政府から、あるいは誰かのポケットマネーから来ています。だからこそ、アーティストが立ち上がって、このままではいけない、この状況は受け入れ難いと言うことが非常に重要だと思うのです。

私はいま香港に住んでいます。同じようなストーリーはよく耳にしますが特に誰も行動を起こそうとはしていないようです。ピチェが自分のダンサーたちに伝えていることは — TPAMでの初演が失敗したらという話… まあ、その後メルボルンとシンガポールをツアーすることは決まっているのですが — 前進するというはっきりした意思表示になっています。参加者のみなさんとの議論を始める前に、前に進み続けるために必要だと思うことについて、2人にそれぞれの視点から話してもらおうと思います。状況やシナリオ、環境がどう変わってほしいと思っていますか? 2人の意見は、ここにいるプロデューサーたちが考えを進めるのにも役立つと思います。

そしてプロデューサーとして私たちがすべきことは — 解決策を見つけるなどといった大げさなことを言うつもりはありませんが — 受け入れ得るような状況について本当に議論できるようにするため、解決へのいろいろなシナリオの組み合わせを見つけていくということだと思います。ヨーロッパやアメリカなどで行なわれていることをコピーすることはできません。文脈が非常に異なるし、私たちはまだ自分たちがどういったシナリオなら実践できるのかも分かっていないからです。進行中のプロジェクトのレベルでそのつど解決することしか私たちにはできていない。だからピチェのプロジェクトに関する前回のディスカッションは、そのプロジェクトに関する解決策を見つけることに焦点をあてていました。でもここで話しているのはもっと広い意味での状況のことで、だからこそ2人から意見を聞きたいと思います。もちろん単にウィッシュリストを出してほしいということでもありません。作品づくりに取りかかる前の段階も含めて、何が絶対的に、クリティカルに必要だと思うかお聞きしたい。

通訳が進行中なので、ピチェには少し考えていてもらって、その間にマークに答えてもらおうと思います。

マーク・テ:ウィッシュリストではないんですよね? だからこれこれが「もっと」欲しいということじゃないわけですよね。

キーホン・ロウ:クリティカルに必要なものです。

マーク・テ:はい。Tシャツにプリントしたい言葉ですね… 私や私のコラボレーターの仕事の性質からして、リサーチのための時間が必要になります。ただ、キーホンがさっき言ったように、いずれにせよアーティストは常にリサーチをしていますから、そういう意味での時間ではありません。そうではなく、机に向かって矛盾を自分の身体や心、作品やリサーチの中で熟成させる時間のことです。これには長い時間がかかります。解きほぐし、考え抜く時間が必要だからです。しかも矛盾には政治的な矛盾、芸術的な矛盾、作業方法の矛盾、方法論の矛盾などいろいろありますから。 

これは上演のさまざまに異なる形式にも関わってきます。私たちは映画、展示、パフォーマンスなどを作りますし、トークやレクチャーが上演として十分な形式たり得ることもありますし、アイデアを声にして語るだけで十分なこともあります。常にパフォーマンスや展示といった形式をとる必要はないのです。何を公衆に届けるかということについて、こういう流動的な考えを持つことが非常に大事だと思っています。私たちにとって現在これはとても重要なことで、私たちのプロセスに組み込まれています。

昨年光州で公演した経験を通して、私たちはたくさんのことを学びました。先月、ケララ州という、インドで初めて民主的に共産主義政権を選んだ州に行きました。規模、予算、フェスティバルという観点からだけしても、光州とこれ以上違う状況は考えられません。そしていま私たちはTPAMに参加しているわけですが、TPAMも光州のような、エイリアンの宇宙船が突然現れたような全く新しい空間を作ろうとしているわけではない。

また、私たちは今一度、懐疑に立ち戻っています。活動家として、そしてグループの非常に政治的な傾向を持ったメンバーとして、なぜ私たちのストーリーや作品に興味を持ってもらえるのか、それにどのような枠組みが与えられようとしているのか、私たちは非常に懐疑的なのです。プログラマーの持っている枠組みに私は興味があります。なぜ私たちの作品を見せたいのか、どのように見せようとしているのか、その文脈は何なのかを知りたい。私たちにとって文脈は非常に重要だからです。光州では歴史的な背景がありましたが、新しい空間、新しいフェスティバルだったので、私たちにはとても難しかった。知らない場所で上演するときには、そこに行って地元のコンタクトというか、歴史家、ドラマトゥルク、活動家、視点などを探すべきなのかもしれません。これはとても重要で、私たちにとっては、いろんな場所にひょっこり現われて「はい、作品をどうぞ!」というのは難しいことなんです。

Photo: Hideto Maezawa

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キーホン・ロウ:これを聞いて、劇場や委嘱者、フェスティバル・ディレクター、キュレーターは自分たちのやり方を見直すべきかもしれません。彼らには彼らのチェックボックスがあって、たいていの場合、それらの中にはアーティストが本当にやろうとしていること、アーティスト自身のプロセスとは一致しないチェックボックスがあるものです。実際、それらのチェックボックスがアーティストのやろうとしていることを台無しにしてしまうことが多いのです。 

どうしてこんなことを言っているかというと、政府が自らの方針を明確に決めるとき、それがアーティストの創作に関する考え方を侵害するからです。まず光州の場合で言えば、自らを「アジアン・アーツ・シアター」と位置づける新しい劇場があった。『Baling』がそこで上演されたのは、彼らのチェックボックスをそれによってチェックできたからなのか? 次に、TPAMがアジア、特に東南アジアにフォーカスをシフトしたのは、明らかに東京オリンピックがらみのお金と国際交流基金アジアセンターの要請からです。こういう問題は支配的で、私たちはこれを問うていかないといけません。私たちはそういった機会を取る。だからアーティストにお金を提供してプロセスを助けることができる。しかしそこで私たちは、いったい何のためにお金をくれようっていうんだという根本的な問いに立ち戻らなければならない。私たちはこれまでそのことを疑問に思ってこなかったからです。

いま私は巨大な組織に属していて、その組織でもこういった問いを提起しようとしています。簡単にはいきませんが、こういった議論を通じたコプロダクションのプロセスは、すでにその問いを含む軌道上で始動していると思います。スティーヴン・アームストロングはAsia TOPA(アジア太平洋舞台芸術トリエンナーレ)という巨大なトリエンナーレを立ち上げようとしていますが、そこには、アーツセンター・メルボルンが他の都市やフェスティバルを出し抜いて、オーストラリアにおけるアジアの同時代作品の第一人者になりたいという熱望があります。こういった問いは、プロデューサーやプレゼンターと協働するアーティストにとって、問うのが大変難しい問いだと思います。だから私たちがその対話を始めなければなりません。そうでなければ、機能するシステムを見つけようというこの努力の全てが無駄になります。私たちは今までのやり方に戻ってしまうでしょうし、変化は生まれないでしょうし、10年経っても状況は良くならないでしょう。ここでピチェからも話を聞きたいと思います。

ピチェ・クランチェン:はい、プロデューサーとアーティストですね。プロデューサーは変わると私は思います。3年ごとか4年ごと、10年ごとに。なぜならプロデューサーは政府から資金を受け取っているからです。政府には政府なりの視点やアイデアがあって、さらに新しいコンセプトやアイデアを作ったり変えたりして、それをアーティストに投げます。プロデューサーにとってそれは普通のことかもしれません。それは4年ごと、10年ごとに必ず起こります。アーティストはどうでしょうか。このゲームに参加するのか? 参加すれば、そのうち死んでしまいます。アーティストは自分自身の旅を続け、自分のアート、自分のコミュニティ、未来のために何がしたいのか、その信念を保たなければならない。この道を突き進むしかない。予算を見て考えや作品を変えようとしたって、うまくいかないと思います。

『Dancing with Death』では、コプロダクションができるかもしれないと分かった時、私は信じられないという気持ちでした。そうなったとき、私たちはまだコプロデューサーを探していなかったので、ただオーケーと言いました。この作品を作りたかったのは、死に興味があったからです。ダンスとは何か、死とは何か? ダンスとは — 私が取り組んでいるものです、そして死者とは私自身のことです。私たちはその一部だからです。私たちはダンスを通して何かを行ない、やがて死にます。これは私にとってとても大きなテーマで、非常に興味深いものです。これに取り組みたかった、そして誰もこの問題については分かっていません。知っている人がいたら教えてもらいたい。死を経験した人がいますか? これについては私たちは平等です。誰も分かっていないんですから。

死後には何が起きるか? 私はそれを知りたい、そしてリサーチが始まり、ずっと続いていきました。そして死について多くの興味深いことを学びました — 死についてこんなふうに話していると、仏教のお経みたいになってきますが。私のリサーチによれば、霊魂と神は別のものです。神を問題にするならば、霊は身体であり、全ては連鎖しています。霊魂を問題にするならば、それはエネルギーであって、動くもの、色の分からないもの、距離、深さ、何なのか分からないものです。だからああいうセットが必要でした。あのセットは全ての部分で高さが異なっています。これが死後です。これが質問への答えになっていると思います。

キーホン・ロウ:今の話の文脈をちょっと補足しておきたいと思います。仏教では死は輪廻として理解されますが、ピチェが死について話すとき、それは輪廻の問題ではなく、死を理解するとそこには百万の出口があるという話なんです。あの作品自体、このディスカッションのメタファーとしてとらえられると私は思います。つまり私たちはみんな、プロデュース業、作品作り、その流通といったループにとらわれているわけです。

自分のバックグラウンド、資金の出どころ、方針などについて大変率直に話してくれて、オープンにそれについて議論してくれたみなさんにここで感謝したいと思います。メタファーとして言いますが、このセッションは、その「出口」へ向かう「悟り」の最初の一歩だと思います。というのは、このサイクルの中に自分がいるということを理解して初めて、そこから出ることが可能になるからです。私たちはみんなこのゲームをプレイしているのだ、とまずは認識すること。そうして初めて最初の扉が開き、死を理解するための探求が始まり、ピチェの言う「百万の出口」を発見するという地点に到達することができるということです。

ピチェ・クランチェン:あるエクササイズについてキーホンと話したんですが、6ヵ月の瞑想 — これもサイクルなのかもしれませんが — の後、私たちはそのエクササイズを発明しました。私たちはこれを「百万の出口」と呼んでいます。サイクルは出口のないものだと考えられがちですが、実はサイクルそのものが百万の出口なのです。ひとつの出口を見つけることができれば、百万のその他の出口を見つけることができるでしょう。

この作品をご覧いただいた方は、ダンサーたちが舞台上のどこへでも行くことができるということに気づかれたと思います。体が動いているのが見えるのではなく、動きが見えて、その動きが理解される。どこへでも出ていくことができるし、何にでもつながることができる。このサイクルを私たちは「百万の出口」と呼んでいるんです。これが次のプロダクションでも私たちのカンパニーの指針になるでしょう。

Photo: Hideto Maezawa

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