『Dancing with Death』の場合

Photo: Hideto Maezawa

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キーホン・ロウ:その話題を出してくれてありがたいんですが、というのは、これは前回のセッションでも触れられた話題で、作品を作っているアーティストが自身のキャリアのどの地点にいるのかという問いと理解は大変重要なんです。ピチェはどうかと言えば、今の彼は、数年前『Black & White』という大規模なカンパニー作品をやったときとは異なる状況にいます。

私が初めてピチェを知ったのはたしか20年前で、彼が現代的な環境でのコーン[タイの伝統舞踊]の文脈を探索しはじめたばかりのころでした。ある意味、そのころもそして現在も、彼とコーンや古典舞踊のコミュニティとの関係は大変難しいものです。ピチェはタイでなかなか受け入れられていません。彼のすることはタイでは冒涜的だと考えられています。しかし、『Dancing with Death』においてピチェは当時とは異なる時空にいて、私たちとしては、アーティストの野心は時を経て成長するということ、そしてそれは5m × 5mの空間や小さなスタジオ、あるいはソジが先日言ったような「機内持ち込みのトラベルパッケージ」に納まるようなものにはとどまらないということを認めなければならないと思います。 

『Dancing with Death』の中心的で本質的な要素としてインスタレーションがあります。それに関連して、ピチェが仏教をリサーチしていることを私はつい最近知りました。そして、彼がそうやって最近考えていることが、彼の個人として、同時にアーティストとしての人生に影響していると思います。ここでピチェに、コプロダクションという文脈で、『Dancing with Death』の創作プロセスについて話してもらおうと思います。この作品に取りかかるという、こう言ってよければ、勇気を持つことができたのは、そして、ここまでたどり着けると信じることができたのは、どのようにしてでしたか?

ピチェ・クランチェン過去を振り返って、どのようにして私が作品を作るかをお話ししたいと思います。私の過去の作品を見ればお分かりかと思いますが、私はステップ・バイ・ステップで仕事を進めます。私の作品は古典的なものに基づいていて、それを同時代的なものに変換しています。タイにプロのダンサーがいないと気づいた時、私自身がなればいいのだと思いました。思い切って言いますが、私は自分がタイで初のプロのダンサーだと思っています。ただ、当時はまだ師匠に繰り返し教わったことを再現しているだけだったので、ダンスに関する認識はまだ非常に狭いものでした。

まず、初期の私の作品は、自分のそういった認識を突き詰めていくものでした。その意味では『Demon』『Nijinsky Siam』『Black & White』は私の初期作品と言えます。『ピチェ・クランチェンと私』『I am a Demon』は、私がコーンの振付やダンスに対して疑問や懐疑を持ちはじめてからの作品です。『ピチェ・クランチェンと私』はラーマーヤナというダンスの構成全体に投げかける問いでした。『Nijinsky Siam』はタイの伝統舞踊に対する世界のダンスの影響についての問いに基づいています。そして『Black & White』は テクニックの昇華と展開についての作品です。

要は、この4つの作品に見られる要素は、タイの伝統舞踊の中にも見られるということです。これら4つの作品を作り上げるのに10年を要しましたが、伝統舞踊を近代化すると面白いかもしれないと私が考えたのはその後だったわけです。伝統的な構成と西洋的な技術の組み合わせには終止符を打つ時なのだと思ったのです。

[英語]私の話、分かりますか? みなさんと共有したいので… 明確ですか? はい。というのは、東南アジアの伝統舞踊家はみんな物事を組み合わせようとするんです。それは彼らの伝統的な様式に西洋の技術を合わせたものですが、私にとってそれはもはや時代遅れです。終わらせなければならない。新しいものを作らなければならない。そういった理由から私は『Tam Kai』という次の作品を作りはじめました。

Photo: Hideto Maezawa

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そこで、私はカンパニーの第二世代を違うスタイルで育てていきたいと思いました。『Dancing with Death』が登場するのはこのあたりです。最初の10年は、ダンスの知識を深めることとダンサーたちのチームを作り上げることに注力していました。ダンスのトレーニング、そして、問いを提起するやり方のトレーニングです。そして、この3年くらいの間にカンパニーがより誠実な何かに変化しましたが、そこで私は、アーティストが様々な手配に手間を取られすぎていることに気がつきました。作品を上演する場所を見つけるために人に連絡したり、作品の資金を探したり。しかも、そうまでしても、その作品をどのくらいの期間上演できるかも定かではないのです。合理的なやり方で私たちをサポートしてくれる人々、物事をコーディネートしてくれる人々を探さなければいけないと気づいたのはその頃でした。そうすればアーティストは作品に集中できて、それまでにやったことのないような、もっと難しいことにも挑戦できると。

私たちが考案した舞台セットが問題になるだろうということは、最初から分かっていました。問題が必要だった、問題になるようなことがしたかった、だからこそ私たちはきちんと踏むべき段階を理解しなければならないと思いました。私たちはコプロダクションの提案をしてもらえて大変幸運だったと思います。コプロダクションが重要だと思うのは、金銭的なサポートが保証されるだけでなく、作品作りに注力できる時間が確保できるからです。さらに私たちの場合、思いもかけず、技術的なサポートまでしてもらうことができました。KAAT神奈川芸術劇場の堀内さんが、私たちが思い描いた舞台セットの技術的実現可能性を検証してくれたのです。セットのデザインをしたのは私で、それまでにタイでたくさんの人の意見を聞いていました。多くの人は、建築的すぎる、ダンスの妨げになってしまうだろう、などと言いました。しかし本当に正しい知識を持っている人が、それをパフォーマンスに使うことは可能だと教えてくれたのです。

そういったサポートのおかげで私たちは『Dancing with Death』に必要なリサーチに時間を費やすことができ、その研究結果は本にもなりました。最も大きかったのは、リサーチをした地域の人々と交流する機会を持てたことで、その経験は私たちカンパニーのダンスの表現と技術に影響を与えています。とりあえずは以上です。

キーホン・ロウ:ありがとうございました。聞いてお分かりのように、この2つのプロセスはかなり異なっていますね。マークの場合は、すでにあるオリジナルの作品を振り返るという行為を通して新しい面を発掘するというようなプロセスがありました。対してピチェの場合は、完全に新しい作品であって、今5分で話してもらったことは、この地域におけるシナリオの核心をついています。ダンスであれ音楽であれ何であれ、新作となると、必要な仕事量が増大します。このケースでは、それが技術的なクリエーションだったわけです。

その状況の中でTPAMは — 前回のセッションで話されたことなんですが — 自分たちが技術的な部分を担当することになるとは考えていませんでした。つまりこれは、まずアーティストが自分にとってもカンパニーにとっても、またはプロデューサーの立場からしても難しいと思われる作品を構想する、そして我々はそのために実際に何が必要なのかを明らかにするために、リソースや少なくとも作業領域を見直すというシナリオなわけです。

ピチェの場合は、最初にはそれほど綿密な計画はされていなかったにも関わらず、コプロダクションが有機的に立ち上がりました。ピチェが言ったことを覚えておられでしょうか。誰が何をするかのルールが明らかでなかったが故に、アーティストが多くの困難を抱えてしまったと。プロデューサーやコプロデューサーも、作品を支援するために誰が何をするのかという問題をめぐって困難に直面していたのです。

簡単なまとめとして私が強調しておきたいのは、どのようなリソースをアーティストに提供するべきなのかを理解するために作業の段階を明確にしておくことの重要性です。ピチェも言っていたように、アジアでは特によくあることですが、資金組みが明確でなければ、自分たちでむりやりどうにかするというのがデフォルトの方法論になります。多くの場合作品のためには理想的なことではないのですが、自分たちの手のつけられる範囲でリソースを探し、どうにかする。たいていはそうなって、その結果、観客に届けられたときにも、作品は完全な形にはなっていないわけです。

アーティストによるこの2つのプレゼンテーションと前回のエコ・スプリヤントのプレゼンテーションとの共通点は、私たちがほとんど初めてクリエーションのプロセスを拡張したということで、それは時間の問題だけではなく、リサーチから振付の探求まで、あるいは税金とか墓地の訪問、その他ありとあらゆることまでのステップに関連しています。明確に前進するためには、こういったことを進めていかなければいけません。そうでなければ、「オーケー、とにかくがんばるしかない」というデフォルトの状態に戻ってしまいます。この状況で、とりわけこういったシステムを定着させようというときには、がんばってどうにかしてしまうというのはあまりよいことではないと私は感じています。

ピチェ・クランチェン:[以下、最後まで英語]東南アジアのダンスカンパニーやダンスプロダクションのここ20年の歴史を見ると、カンパニーやグループは10年、多くて15年ほどしか存在せず、次第に消えて、また出現したり消えたりを繰り返しています。なぜなら、グループがある程度成長するとそこで行き詰まってしまうのです。予算、観客、空間、フェスティバル、その他諸々で行き詰まります。私は自分のカンパニーにこの同じ負のサイクルにハマってほしくない。私は本気なので。私は伝統的な導師ではありません。年をとっても体を動かし、精神も活かし、自分自身を動かしたい。指導者ではなく、アーティストでありたい。そしてアーティストあるということを真摯に考えるのであれば、成長して問題を解決する方法を見つけなければなりません。

東南アジアでの大きな問題は、ダンサーのキャリアです。私たちは老いた身体、老いたダンサーを信奉していません。新鮮な身体を望んでいます。若いダンサー、新鮮なダンサーを舞台に上げたい。これが問題の1つです。もう1つの問題は、作品を見てもらう機会がフェスティバルしかないことです。東南アジアには、例えば、インドネシアン・ダンス・フェスティバルがあって、2年に1回開催されます。2年に1回。信じられない。2年に1回ですよ。それからシンガポールに1つあります。この10年間、公演の機会は非常に少なかった。

私はいまだに、どうすれば作品を作って上演できるのか分かりません。政府からの助成金? 無理です。東南アジアでは無理。政府は悪くありません。政府はよくやっています。彼らは悪くない。ええ。ただ、彼らには彼らの視点があるということです。私たちは彼らに現代芸術とは何なのか伝えたい。彼らはそれが彼ら自身にとって何を意味するか分かっていないからです。彼らは古典的なパフォーマンスが何を意味するかは分かっていますから、それ以上のこと、つまり同時代のパフォーマンスについて、その今日的重要性について、理解させたいのです。政府自体が問題なのではありません。問題は彼らとのコミュニケーションであり戦いなのです。東南アジアのカンパニーがたどる道や彼らの仕事を見れば、同じ問題を抱えていることが見てとれるでしょう。

東南アジアでは、この問題ばかりです。だからこそ私はそれを解決しようとしてきました。まずはダンサーが最も重要だと思います。ダンサーが強くならなければならない。次に、どのようにプロダクションを作るか。3つ目が、自分のカンパニーをサポートしてくれる人々を見つけること、そして自分のアイデア、コンセプト、方針をもってカンパニーを運営していくことです。

世界のダンス史を振り返ると — マーサ・グラハム、マース・カニングハム、クラウド・ゲートなどを見ると — 彼らは自分自身の考えを持っています。ですが東南アジアでは、私たちはまだ師匠から受け継いだものを用いている。良い弟子かもしれませんが、良いことが良いとは限らない。良い赤ん坊になってしまったら、そのままずっと成長できない。成長したければ自分なりのものを創造しなければならないし、ダンスと結婚してセックスをして子供を産まなければならないのです。お願いだから自分の子供を作ってほしい。だから私のカンパニーは伝統と西洋的なものを組み合わせることを10年前にやめたのです。新しいものを作らなければならない。失敗するときはするし、成功すれば続けることができます。私のダンサーたちともいつもこの話をします。TPAMの上演が失敗したら、別の仕事を探すしかないなと(笑)。それがアートというものです。決して簡単な道ではないからわかりませんが、本当に厳しい道なのです。決断し、その道程の中で喜びを見出さなければなりません。

Photo: Hideto Maezawa

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